金森「〈科学思想史〉の哲学」(2010)
金森修「〈科学思想史〉の哲学」
同編著『科学思想史』(東京:勁草書房、2010)、1-66頁。



「科学思想史」と名付けられた論文集のイントロダクションとして、
そもそも科学思想史とは何で、何を目指すのかということを議論している。

参考までに引いておくと、〈科学思想史〉の主題とされるのは次の四つである。

1.或る時代の自然観・科学観が、
どのように或る特定の思想家・思想を規定しているかを調べること
2.或る時代の思想状況が、
或る特定の科学者にどのように影響しているかを調べること
3.自然観の変遷の調査
4.科学観の変遷の調査

これに続いて、「科学社会学的成分は中心には置かない」ということが述べられ、
さらに科学史におけるインターナル派とエクスターナル派の対立という
歴史的な話題についての解説がある。
科学史をやっている人ならたいてい知っている話ではあるものの、
案外文章の形でまとまって書かれているのは少ないので便利だ。

とはいえ、この論考の価値はその先、後半部の「〈そもそも論〉」にある。

「科学史でも科学思想史でも面倒な区別は別にどちらでもいい、
そもそも、なぜ科学史などが必要なのだろうか。」

ここで著者はまず、〈嚮導[きょうどう]科学史〉という概念を提出する。
「歴史性が仮象領域に棚上げされ、人は歴史を語るようでいて現在をしか
語っていず、それが科学者に、現在→近未来への行為を誘発するような形で
語られているような場合、〈嚮導科学史〉が成立する」と著者は述べている。
早い話、それが本当に起こった出来事かどうかはともかく、
科学研究を進める上で勇気づけられるようなタイプの科学の歴史、
ということだと思ったらよいだろう。

そのように定義しておいて、著者は「少なくとも一次的には科学史は
科学者のために存在するものではない
」と述べる。
このあたりの考え方や、「〈嚮導科学史〉を作ることは科学者になら許される。
だが私には許されない」といった告白は、僕もまったく同感だ。
(そしてそこに重大なジレンマがある。)

では何を目指すのか、という話だが、
結論として主張されるのは〈他性の科学史〉なるものだ。
これは明示的な定義として言われていないので少し把握しづらいのだが、
おそらく話のポイントは、過去にあった自然観や科学観は往々にして
現在から自然に類推されるものを遥かに超えている、という認識にあると思う。
そうした当時の概念の総体を、現代に無理に同化させて理解するのではなく、
ありのままの他者として受け入れよ、というのがその名称の意図だろう。
そしてそのような読みが正しければ、
僕としてもこの立場を受け入れるのにやぶさかではない。

正直に認めるが、この論考で書かれている科学史についての見方は
僕が普段考えていることと極めて近い。

「〈科学思想史〉の本当の研究対象は、自然というよりは
〈自然についての知識のあり方〉、またはその〈作られ方〉である」

とか、

「それが正しいか正しくないかに関係なく、或る一定の緊張感と理をもって
考えられたものは、人間史の一種の〈事実〉である。・・・(中略)・・・
真理、半・真理、反・真理の混乱した海の中に溺れそうになっても、
別に構わない。なぜならそれらは、人間によって考えられたことなのであり、
それは、〈世界の条理〉と同じくらいに貴重なものだからだ。
このようなスタンスをとることで、科学思想史は一種の文化史としての
自己定位をするのである


とか、僕の口から出た言葉であっても不思議ではない。

ただ、それではこれで話が万事済んでいるかというとそうではないだろう。
あえて言わせていただくなら、僕が思うに、この論考には二つ足りないものがある。

一つは、「なぜ科学史などが必要なのだろうか」という先の問いに対して
肯定的な回答が与えられていないという点だ。
科学史は科学者のためのものではない、ということで、
〈嚮導科学史〉を去って〈他性の科学史〉を目指す、というところまではいいとして、
ではそれは何のための、また誰のためのものなのだろうか。
これを議論しない限り、「〈そもそも論〉」はそもそも成立しないように僕は思う。
僕自身は、ここ一年あまりずっとこの問題を考えているが、まだ答は出ない。

もう一点は、〈嚮導科学史〉を僕らが書くことができないとすれば、
では科学史は科学者に対して何もできないのか、ということにある。
僕はそんなことはないだろうと思う、というより、もっと率直に言えば、
「僕らは科学者のほうを向いては語っていません」などと述べるのは
最初から負けを認めているようなものだから嫌だ、ということだ
(著者がそういうことを宣言しているのではない、念のため)。
科学史家と科学者の両方に資するような歴史の語り方はないのか、
というのは僕にとって大きな課題である。

なお、それに関していうと、著者がこの論考の中で、
科学者をさらなる科学研究に導くような性格を持つ〈嚮導科学史〉を、
科学史内部における記述スタイルの問題としてのホイッグ史観と分離したのは
問題解決に向けた重要な一歩であるような気がしている。
(何が言いたいかというと、「嚮導」的でないようなホイッグ史観というのが
ありうるのではないか、ということだ。この方向でもう少し考えてみよう。
それにしても、何もこんな難しい言葉でなくてもよかったのに・・・。)

そういうわけで、この論考は科学史(特にインターナル系の)に興味のある人なら
読んでおいて絶対に損のない内容と思う。

書き忘れたが、著者はフランス系の科学思想史・科学論の第一人者
(僕自身はまだ直接の面識はない)。
告白すると、この方の本は後回しになっていてほとんど読めていない。
もっと勉強しなくては・・・。

****

なお、せっかくの機会なので、この論文集に収められた論考を
これから順次紹介・コメントしていく予定。
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by ariga_phs | 2011-02-21 23:19 | 何かに使えそう
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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