奥村「日本におけるフランス科学認識論」(2011)
奥村大介「日本におけるフランス科学認識論:脱領域の知性のために」
『哲学』(慶應義塾大学三田哲学会)第126集(2011年)、1-30頁。



広い意味での科学論の中でも、フランス系のものは兎に角独特だ。
強いて言うなら文学に極めて近く、慣れないと大変読みづらい、
と言うよりむしろ、慣れるということが殆ど無理な気さえする。
そういう訳でどうしても敬遠し勝ちなのだが、気になる存在でもある。

この論考は、フランス系の科学論――より正確には科学認識論、
あるいは片仮名で「エピステモロジー」と書いたりもするが--
の文献案内として、まず第一に有益だ。
論文の題名通り、特に日本での紹介状況について詳しいので、
どんな論者にはどんな著作があり、どれに邦訳が有ってどれに無いのか、
ということが直ちに分かる。

取り上げられている人物は、バシュラール、フーコー、カンギレム、
ダゴニェ、セール、スタロバンスキー、シュール。
名前は耳にしていても、実際に読んだ経験が有るのはごく一部しか無い。
各々の人物がどういう仕事をしているのかという紹介は、
これだけでも大変に有難い。
加えて、この伝統に属する日本人の仕事まで纏めて紹介しているような文献は
他所には一寸無いのではないかと思う。
(ちなみに僕は金森先生の本を殆ど読んでいないのだが、
そこに手を着ける前にこれを読んでおくと随分見通しが良くなるのではないか。)

とは言え、どれだけ文献を渉猟してみても、
単に斯く斯く云々の文献が在るというだけなら論文とは言えない訳で、
そうした研究伝統を踏まえてどうするのか、という所がこの論考のポイントである。

著者は具体的には、(1)〈博識の系譜〉、(2)〈想像的なもの〉という二つを
今後の道を照らすものとして掲げる。
前者は、「ただ一つの領域や対象だけにとらわれない知性と、
それを可能にする博識」を「われわれはわれわれなりに身につける」べし、
というものであり、
後者は、「知性の外にあるもの、たとえば文学や美術といった
想像力の産物に対峙」することを要求する。
その結果、それは最早「科学認識論」と言うより「科学文化論」に成るのだと言う。

ところで、僕がこの論考を読んでいて重要だと思ったのは、
フランス科学認識論と英米系の科学哲学を相補的なものとして捉える視点である。
特に、後者で"science"と言われるのが「知識」という一般的な意味なのに対して
前者では個別科学が問題になるという対比は案外深く考えてみるべきかもしれない。

更に個人的な感想を続けると、本当に面白い研究というのはこの二つの伝統の
汽水域辺りで生まれているような気もしないでは無い。
名前の挙がっている所では、ハッキング然り、ダストン然り
(いずれも一部の著作しか読んだことは無いが)。
そこから推察されるのは、フランス系と英米系の二つの科学哲学/認識論は
多分共存できるだろうし、させるべきなのだろうということだ。
汽水域とは真水と淡水が混ざる所の謂である。

直観的に言って、英米系のものは制度化する方向に、
フランス系のものはそれと反対の方向に作用するように思う。
そして或る意味、前者の方が研究し易く、後者の方が難しい
(ちなみに僕自身はと言えば、可也自覚的に、両者の間を彷徨っている)。

しかし其の辺りは、研究者の性格にも多分に左右されるだろう。
どれだけ脱領域を唱導した所で、
専門分野を掘り進めて優れた成果に到達する人はいるだろうし、
どれだけ狭い領域に閉じ込めようとした所で、
それを逸脱していく動きは常に有る筈だ。

この論考そのものが、その例証で無くてなんだろうか。
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by ariga_phs | 2011-04-25 21:16 | 何かに使えそう
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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