三村太郎『天文学の誕生:イスラーム文化の役割』
東京:岩波書店(岩波科学ライブラリー)、2010.
中世イスラーム世界における天文学の展開を扱った概説書。
関連文献のところに、そのような本は「日本はおろか、欧米でもまだない」とある。
その意味でたいへん貴重で、よそではまったく聞いたことのない話が多い。
[たぶん文献で挙がっているグタスの本が主要な情報源なのだと思うが未見。]
アッバース朝(750-1258)における天文学研究の変遷を、
宮廷の動きを背景にして提示しているのが一番の特徴。
たとえば、アッバース朝はその成立期においてペルシア人との提携をはかるべく
かつてのサーサーン朝ペルシアで行われていた翻訳活動を引き継いだのだが、
その中で古代ギリシアの天文学(だけではない)も受け継がれた、とか、
宮廷内で戦わされた宗教上の議論の場で論証というものが重視されるようになり、
その中でギリシアの論証科学(天文学であれば『アルマゲスト』)が
評価されるようになった、とか。
加えて、アッバース朝の初期にはむしろ強力な計算法を備えていた
インド天文学の影響が強かったのが、後期になると上のような事情の中で
より厳密なギリシア流天文学に傾いていったという話はとても興味深い。
[IntelligibilityとInstrumentalityの話の一例として。]
このことも含め、この本は総じて、古代ギリシアとコペルニクスのあいだをつなぐ
重要な一冊になっていると言っていいだろう。
ただ一点、これはかなり趣味の問題でもあるのだけれど、
テクニカルタームをカタカナで訳すのはできれば避けていただきたかった。
たとえば・・・
シッダーンタ:インド天文学で、解法を述べた韻文形式の書のジャンル
ズィージュ:シッダーンタの影響下にイスラームで成立した天文学書のジャンル
ブルハーン:アッラーの徴、宗教の正当性を示す証拠、転じて論証一般
マジュリス:権力者が配下の学者を集め、議論させた場
ハイア:宇宙の仕組みについての学問で、天文計算および占星術と並んで
天文学の主要分野の一つとされた
馴染みがないと、読んでいていちいち引っかかってしまう。
適当な訳語を作ってそれにカタカナでルビを振るとか。
あるいはせめて、索引なりキーワード集なりを付けていただくとよかった。
三村さんは科学史の中では数少ない、中世イスラームがご専門の若手研究者。
僕も一章を書いた本『科学の真理は永遠に不変なのだろうか』では、
上でも出てきた論証科学の成立の話を書かれている。
ご関心があれば併せてどうぞ。