東浩紀・北田暁大『東京から考える』
東浩紀・北田暁大『東京から考える:格差・郊外・ナショナリズム』
NHKブックス、2007.

「ジャスコ化」をめぐる対談である。そう言うほうがたぶん的確だと思う。
「ジャスコ化」って何だよ、というのは追って明らかになると思うので、
ひとまず思いつくままに感想を書き連ねてみたい。



社会思想系の本をさっぱり読まない僕がなぜこんなものを読んだのかというと、
「東京」というところがどこなのか僕にはいまだによくわからなくて、
何かヒントになることが書いていないかと思ったのだ。
東京都内に移ってきてから一年ほど経つが、「東京」はよくわからない。
というより、自分が「東京」にいる、ということがいまひとつピンとこない。

……リアリティというのは結局のところ何なんだろうか。
そんなことを、読みながらずっと考えていた。

「あとがき」に、この対談では「とにかく、「都市論論」「東京論論」に
ならないよう、毎回実際に街をひと歩きし、自身の直観と経験と記憶に
もとづかせながら話を進める、ということを心がけた」とある。
「自らの体験と記憶にもとづき、都市・東京に対する直観を
経験的かつ理論的に引き伸ばし、現代社会へと接続する、というのを
今回の企画の基本線とした」(北田氏)、と。

この本自体は対談の内容そのままではなく、相当編集してあるとのことだが、
もとになった対談は東京都内もしくはその近郊の特定の土地でなされ、
対談それ自体もさまざまな街のありようをめぐって展開する。
第1章の前に置かれた地図で挙げられている地名を書き写してみると、
渋谷、中目黒、六本木、下北沢、秋葉原、池袋、汐留、新宿、中野、浅草、
成城、田園調布、恵比須、北千住、東雲、二子玉川、自由が丘、町屋、
西葛西、江古田、押上、枝川、台場、という具合――。
ひとくちに「東京」と言ってもずいぶんいろいろな土地がある。
東京に住んだことのない人には、耳慣れない地名もきっとあるに違いない
(東雲=「しののめ」とか、そもそも読めないし)。

対談の一番初めから言われることだが、東京は東と西で世界が違う。
僕自身は西側で1年ほど過ごしたが、東のほうはまだ行ったことがない。
東京暮らしをしているとは言っても、家と大学と会社が生活のほとんどで、
京王線が主な移動の足だから、東側には縁がない。
それどころか同じ西側であっても、中央線や小田急線の沿線は不案内だし、
東急にいたってはほとんど乗ったことすらない。

……東京に住んでいない人にはよくわからないと思うので解説しておこう。
ごく大雑把に言って、山手線を時計の文字盤に見立てたときに
ほぼ9時の位置が新宿で、そこから西のほうへ伸びていくのが京王線。
山手線から西側には放射状に伸びる鉄道路線がいくつかあって、
京王線の上をJR中央線がほぼ平行に西向きに走っていき、
京王線の下は順に小田急線、東急田園都市線、東急東横線、
JR東海道線が走っている。
参考までに付け足しておくと、東京駅は山手線の4時あたりの位置――。

話が逸れた。とにかく、東京というところは「モザイク」である。
ひとつのまとまった都市として「東京」があるというより、
小さな街が点在しているというほうが実際の感覚に近い。
しかしいっそう本質的で驚かされるのは、東京近郊に住んでいる人には、
それぞれの街について想起されるイメージがあるらしいということだ。
現実にはたぶん多くの人がその大部分に不案内なはずなのに、である。
東京あるいはその近郊で生まれ育った人にはあって、
そうでない人に決定的に欠如しているのはその感覚だと僕は思う。

この対談を通して僕が一番、ある意味で居心地の悪さを覚えたのはそこだった。
ふたりの著者は明らかに、東京についていろいろな体験やイメージを共有している。
「その土地のことはよく知らない」といった話も確かに出るし、
街の特色やその変化をめぐる考え方や評価の違い、ということも問題になる
(その違いがだんだん浮かび上がってくるところがこの対談の面白さだと思う)
のだけれども、それでも彼らは、お互いの言っていることをわかっている。
知識ではなく、肌感覚として、どこそこというのはどんなところで、
近頃はどんな変化が起こっていて、という理解を共有して喋っている。
僕にはそれがない。
「東京」というものについての、身体に滲みついたリアリティがない。

当たり前といえば当たり前すぎることなのだが、
人の考えることはその人のたどってきた経歴や経験を大きく反映するのだな、
と、この本を読んで思った。そのことには安心感を覚える。
が、同時に、不安もある。

僕が社会思想系のものをどうも好きになれない理由はそれかもしれない。
「社会」について論じようとするとき、人はたぶん無意識のうちに、
自分が見聞きしてきた、自分にとってリアリティのある「社会」を念頭において
なにごとかを語っている。
その前提が食い違うところで、はたして意味のある議論はできるのだろうか。
これは別に社会に関する思想に限った話ではないけれども、
たとえば自己についての思索内容がその人の経験に左右されたとしても、
自分の中で閉じることは一応可能であるように思える(違うかもしれないが)。
しかし社会の場合には、それがまさに他者と関わる領域の話であるがゆえに、
どうやっても前提の違いという問題を避けて通れないだろう。
本来は個人的な「社会」が、まるで誰にでも共通であるかのように語られる。
前提の違いを各人が自覚して喋っているならいいけれども、
それが気付かれないままになっていることも少なからずあるのではないか。

だから僕などは、「自らの体験と記憶にもとづき、都市・東京に対する直観を
経験的かつ理論的に引き伸ばし、現代社会へと接続する」ということ自体に
どうしても不安を感じてしまう。そこで論じられる「現代社会」は、
本当にすべての人にとってリアリティを持つようなものなのだろうか、と。
仮に万人に当てはまる議論でないのだとしたらそもそも「社会」を論じる意味が
ないように思うが、社会思想を論じる人たちはそこをどう考えているのだろう。
誰もが自分のリアリティの根本を自覚し、相手のリアリティとの差異をも把握し、
その上で建設的な議論を展開しようと努めているのならいいのだけれど…。

もっとも、東氏のほうは、これに対しても返答を用意していそうだ。
幹線道路沿いに大型のショッピングセンターや専門店が立ち並ぶ風景と、
そうしたものによって誰でもそれなりに便利で快適に暮らせる状況の創出。
それが東京の都心部でも、全国の地方都市でも、日本中で進行している。
「ジャスコ化」は「人間工学」的に正しいものであって、
人々がそれをわりと好意的に選んでいっているのが現実である。
これは思想がどうこう以前の、「動物」の次元の問題である以上、
ユニバーサルに、誰にとっても当てはまるリアリティのはずだ――。

北田氏のほうは、この議論の正しさを認めつつも、なお反論しそうだ。
それはそうだが、そのユニバーサルなリアリティの感覚自体が、
言ってみれば歴史的・社会的に構成されてきたものだ。
そこを批判的に考え直すことで状況を変えていこうとするのも
人間の一つの可能性ではないのか――。

どちらの主張ももっともだと思う。
そして僕自身は、どちらの議論を支持するということもない。
支持できないのではなくて、支持することができない。
前提が違うのだ。どちらの主張も頭ではわかるけれども、
彼らがそれを主張する根拠になっているはずのリアリティがわからない。
そこがわからないと、どちらの議論も心底腑に落ちることはないだろう。
彼らの議論している「東京」や「社会」が僕のそれと同じだという感覚を、
僕はどうしても持てずにいる。

……あるいはもしかすると、僕はまだ「東京」に住んでいないのだろうか。

そうなのかもしれない。
そういえばこの本ではいろいろな地名や路線名が出てきたが、
京王線はついぞ話題にならなかったような気がする。
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by ariga_phs | 2012-02-03 22:50 | 斜めから読む
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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