川内倫子展
川内倫子展――照度 あめつち 影を見る
東京都写真美術館 2012/5/12-7/16

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いつものことだが、川内倫子というのがどういう人なのかは知らなかった。
ただ写真を見たい、と思ったので写真美術館に出掛けたまでだ。
一年ぶりくらいの来訪になるのではないかと思う。

案内には作家について、こうある。
「2000年以降の時代を代表する写真家として若い世代を中心に支持され、
国際的にも活躍する」
「私的な日常光景を切り取り、つなぎあわせ、普遍的な生命の輝きへと昇華させる
写真表現によって同時代の高い評価を獲得してき」た。

印象として、特に多かったように思う種類の被写体が二つある。
人間の手や足の動きと、虫を含む小動物だ。
もっとも風景写真もあって、今回の展示のメインの一つだった「あめつち」の中の、
阿蘇の野焼きの光景などは静かな迫力を湛えていた。
でも僕としては、その写真にしたところで、撮られているのは風景ではなく
炎であったような気がしてならない。
つまり、動くもの。

明らかに、この印象は、今回の展示内容にかなり影響されている。
10枚程度のパネルが左右に並んだ細い通路を進むと右手に暗室の入口があって、
その中では短い映像をつなぎあわせたフィルムが二面並べて延々上映されている。
さらに後のほうの部屋でも、例の野焼きの風景と、もう一つ別の作品の映像があった。
写真展じゃないの? という素朴な疑問。

つまらない疑問だが、しかし写真であるか映像であるかの違いは大きい。
後者は動かないが前者は動く。
この人が撮りたいのは写真なのか、それとも映像なのか。
あるいは僕のほうがてんで間違っていて、写真と映像とに違いはないのだろうか。

最近、写真を撮るということへの興味が強くなった。
何かを撮りたいということではたぶんない。
自分の見ている光景をここに置いてみたい、のだと思う。
写真を撮るという行為は自分の視点、ものの切り取り方を意識させてくれる、
撮られた写真ではなくてそのことこそが重要なんです、
知り合いが以前、そういう趣旨のことを言っていた。
なるほどそういうことであるのなら、その画像が静止しているのか動いているのかは
どちらでもよいのかもしれない。

けれども、話を戻すけれど、この作家が静止しているものではなく
動いているものを撮ろうとしているのは明らかなように思える。
(願わくは本人に「そんなことはありません」と言われませんように。)
そうでなければ、写真を撮っているその同じ対象に対して
同時にビデオカメラを回したりはしないのではないか。

僕の場合はどうだろう、と考えてみる。
動いているものよりもむしろ、静止しているもののほうに惹かれる気がする。
よく「一瞬を切り取る」という言い方があるけれども、
この表現はその対象が本来動く(移りゆく)ものであることを前提している。
そしてたぶん、あらゆるものがそのように移ろっていくと本能的に感じるからこそ、
逆に「一瞬を切り取る」ことで形に残そうとするのだと思う。
そのことに異論はない。
ただ、僕自身はたぶん、それよりももっと強い願望を抱えている。
「一瞬を切り取る」こと以上に、「永遠を切り取る」ことのほうに惹かれる。
理想を言えば、撮った写真に時間の痕跡が一切残っていないことを望む。
これが僕の期待であるなら、写真と映像の違いは本質的だ。
映像は時間の中でしか存在できない。

久しぶりにこんなに遠くまで来れた。
芸術鑑賞は無理やりにでもしたほうがよいかもしれない。





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進めばいいのか止まればいいのか一瞬迷う。
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by ariga_phs | 2012-06-17 17:40 | 斜めから読む
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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