言葉の兆し
言葉が兆すとはどういうことか、と考える。

兆すからには、それ以前にはなかったのだろう。
あるいは、もっと前にはあったのかもしれないが。
そして兆すからには、まだ本格的には到来していないのだろう。
将来のことはともかく。

しかし将来、というものが、今でもまだ期待できるだろうか。
「先行きが不安だ」「世の中がどうなっていくのかわからない」
そういう感覚は、確かに以前からもあった。
ただそのように言われるとき、ひとが抱いていたイメージは、
ちょうど暗い森の中に道が吸い込まれていくように、
深い霧に包まれて数メートル先の視界が利かないというように、
道はあるがそれがどうなっているか見分けられない、
というものであったように思う。
あるいは、ハンドルもブレーキもない車に乗せられていて、
突っ走っていく爽快さに浮かれつつも、どこへ連れて行かれるのかという
漠然とした不安であったかもしれない。
しかしいずれにせよ、そこに道があるには違いなかった。

震災のインパクトは、それとは異なる。
道はある日突然途切れて、そこで終わるかもしれない――
(ちょうど、かつての戦争でそれまでの生活が断ち切られたように)。

それに気付いたとたん、ひとは無口になる。



……。





…………。





「この度はほんとうに、何と言ったらよいか……」
という表現が日本語にはある。

この自己矛盾はなかなか深い。
語る言葉がないのに、それでも何かを言わないといけないという感覚。
それはもしかすると、言葉を本当に失ってしまったら生きていけないと
本能的に察知するからかもしれない。
この先まだ生きていこうとするならば、何かを言わないといけない。
辛いことだが。

震災後の四月から一年間に二人の作家のあいだで交わされた
『往復書簡 言葉の兆し』(朝日新聞出版)を読んでいて、
ふだんの自分が使っている日本語の貧相さ、軽薄さに愕然とした。
言葉にはそれなりにこだわっているつもりが、
まるで遊びでしかなかったと思い知らされる。

もっと価値ある言葉を使いたい、と思う。
それが自分には結局無理な話だとしても、そう願わずにいられない。
道がある日突然途切れるのではないかというあの切迫感は失わずに、
それでいて一歩を前に踏み出していくような言葉が欲しい。

「回復と言い復興と言い、傷を負った樹が屈曲しながら、
生長していくのに、おそらく変わらない」(古井由吉、2012/1/16)

「時間がいったん断たれたところから時が生起するのを
いまはじっと待ち受けています」(佐伯一麦、2012/3/20)

あるいはそれは、文章という形にはならないのかもしれないが。
思わず口からこぼれる祈りの文句には、
切実さと温かさの両方があるように思う。





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(野川燈籠流し。あいにく開始後に雷雨中断となり、そこで帰ってきた。)
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by ariga_phs | 2012-08-17 23:59 | 歳歳年年
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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