<   2012年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

川内倫子展
川内倫子展――照度 あめつち 影を見る
東京都写真美術館 2012/5/12-7/16

a0097088_9344792.jpg




いつものことだが、川内倫子というのがどういう人なのかは知らなかった。
ただ写真を見たい、と思ったので写真美術館に出掛けたまでだ。
一年ぶりくらいの来訪になるのではないかと思う。

案内には作家について、こうある。
「2000年以降の時代を代表する写真家として若い世代を中心に支持され、
国際的にも活躍する」
「私的な日常光景を切り取り、つなぎあわせ、普遍的な生命の輝きへと昇華させる
写真表現によって同時代の高い評価を獲得してき」た。

印象として、特に多かったように思う種類の被写体が二つある。
人間の手や足の動きと、虫を含む小動物だ。
もっとも風景写真もあって、今回の展示のメインの一つだった「あめつち」の中の、
阿蘇の野焼きの光景などは静かな迫力を湛えていた。
でも僕としては、その写真にしたところで、撮られているのは風景ではなく
炎であったような気がしてならない。
つまり、動くもの。

明らかに、この印象は、今回の展示内容にかなり影響されている。
10枚程度のパネルが左右に並んだ細い通路を進むと右手に暗室の入口があって、
その中では短い映像をつなぎあわせたフィルムが二面並べて延々上映されている。
さらに後のほうの部屋でも、例の野焼きの風景と、もう一つ別の作品の映像があった。
写真展じゃないの? という素朴な疑問。

つまらない疑問だが、しかし写真であるか映像であるかの違いは大きい。
後者は動かないが前者は動く。
この人が撮りたいのは写真なのか、それとも映像なのか。
あるいは僕のほうがてんで間違っていて、写真と映像とに違いはないのだろうか。

最近、写真を撮るということへの興味が強くなった。
何かを撮りたいということではたぶんない。
自分の見ている光景をここに置いてみたい、のだと思う。
写真を撮るという行為は自分の視点、ものの切り取り方を意識させてくれる、
撮られた写真ではなくてそのことこそが重要なんです、
知り合いが以前、そういう趣旨のことを言っていた。
なるほどそういうことであるのなら、その画像が静止しているのか動いているのかは
どちらでもよいのかもしれない。

けれども、話を戻すけれど、この作家が静止しているものではなく
動いているものを撮ろうとしているのは明らかなように思える。
(願わくは本人に「そんなことはありません」と言われませんように。)
そうでなければ、写真を撮っているその同じ対象に対して
同時にビデオカメラを回したりはしないのではないか。

僕の場合はどうだろう、と考えてみる。
動いているものよりもむしろ、静止しているもののほうに惹かれる気がする。
よく「一瞬を切り取る」という言い方があるけれども、
この表現はその対象が本来動く(移りゆく)ものであることを前提している。
そしてたぶん、あらゆるものがそのように移ろっていくと本能的に感じるからこそ、
逆に「一瞬を切り取る」ことで形に残そうとするのだと思う。
そのことに異論はない。
ただ、僕自身はたぶん、それよりももっと強い願望を抱えている。
「一瞬を切り取る」こと以上に、「永遠を切り取る」ことのほうに惹かれる。
理想を言えば、撮った写真に時間の痕跡が一切残っていないことを望む。
これが僕の期待であるなら、写真と映像の違いは本質的だ。
映像は時間の中でしか存在できない。

久しぶりにこんなに遠くまで来れた。
芸術鑑賞は無理やりにでもしたほうがよいかもしれない。





a0097088_9365092.jpg


進めばいいのか止まればいいのか一瞬迷う。
[PR]
by ariga_phs | 2012-06-17 17:40 | 斜めから読む

割り切れない話
理由もよくわからないのに気分が塞ぐ、というのはあまり気持ちのいいものではない。
じゃあ理由がわかれば気持ちがいいのか、と言えばそんなこともないわけだが。

1,2週間前から、どうも調子がよくないのだった。
研究にも身が入り切らないし、なにより身体がなんとなく重たい。眠い。
別に忙しくしているわけでもなし、どうも理不尽だ、割り切れない。

割り切れないと言えば、数字の2は割り切れないことが苦手な性格なのだという。
それで帽子やきゅうりとは最初、打ち解けられなかったのだと。

江國香織の『ホテル カクタス』を読んだのである。
ひと月ほど前だったか、BxxKxxFで単行本が叩き売られているのを買った。
考えてみればそういうものを買っている時点で
何かが足りないと心身が訴えていたのかもしれない。
とはいえようやくページを開いてみたのは1,2週間ほど前のことで、
そのときも確かここで読んでいたのだったような気がする。
半分くらい読んでまた日常に戻った。そして今日を迎えた。
続きを読んだ。読み終わった。そうしてまた、日常に戻るに違いない。

それはそれとして、本当にまあ、三人のキャラクターがうまくできている。
帽子ときゅうりと数字の2を「人」で数えるのかという疑問はもっともだが、
事実「人」で数えられているのだから仕方ない。
なんとなくハードボイルドの入った初老の帽子と、
悪気のない真直ぐな性格で運動好きな若者のきゅうりと、
役所勤めで少し神経質なところのある数字の2と。
古ぼけたアパート「ホテル・カクタス」での彼らの日常と交流、
そのシーンの一つ一つが実に豊かにイメージされてくる。
小説というより、絵本を開いているような錯覚にとらわれるのはなぜだろう。
どうして言葉だけの、しかもごく短い簡単な文章が、
これだけ良質な絵の具の役割を果たすのだろう。

長いこと、満足のいく文章を書いていないような気がする。

文章ならそれこそ毎日でも書いている。
書き進めている博士論文は、これはこれで、よい内容になっていると信じている。
けれどもそのことと、書いている文章に自分が満たされているかどうかとは別だ。
考えながら書く文章は、書いている途中で淀んでしまう。
考えが固まる先から書いていかなくては、直感をそのまま文字にしていかなくては、
本当に満足のいく文章にはならない。
理性ではなく感情を写し取るような文章を、たぶん書きたがっている。

(論文なんかも、そうやって書けたらいいのに。)

梅雨入りして気候が安定しないことも、気分が乗らない一因かもしれない。
今夜もわずかに小雨がぱらついていて、窓の外の道路を走る車のたてる水音が、
音楽のかかった店内にまで時折わずかに響いてくる。

残念ながら、この話が気持ちのいい落ちを迎えることはなさそうだ。
まあ、別にそれでもいいけど。――今のところは。

a0097088_23405185.jpg


ちょっとくらい仕事しようかな。
[PR]
by ariga_phs | 2012-06-16 20:50 | 歳歳年年

天秤のもう一方
一方には、研究やら授業の準備やら請負業務やらといった科学史があって、
別の一方にはそろそろ二ヶ月になろうかという同居生活があって。

それらには何の不満もない、
のではあるけれど。

もう一方がないと、どうもうまくバランスがとれないのであるらしい。

気付けばブログも綴ってないし、小説もほとんど読んでないし、
美術展も見に行ってないし、歌もさっぱり歌わなくなってしまったし。

・・・カンを取り戻すにはしばらくかかりそうだ。



a0097088_23191959.jpg


吸い込まれゆく22時。
[PR]
by ariga_phs | 2012-06-11 23:23 | 歳歳年年

運用方針変更のお知らせ
諸般の事情から、このブログの運用方針を変更しようと思います。
これまでは趣味の話題や専門的な文献紹介などをとりまぜて来ましたが、
今後は掲載する媒体を分けることにしました。

このブログでは、趣味的な話題に特化し、
科学史とは直接関係のない本や展覧会の感想などを書いていきます。

論文のまとめなど専門性の高い記事については、
Researchmap内の「研究ブログ」を利用して書いていく予定です。
http://researchmap.jp/read0149824/研究ブログ/

※ただしこれまでに書いた記事については、移行せず残しておきます。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
[PR]
by ariga_phs | 2012-06-07 16:19 | information

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Vivre Comme Ornithorynque.
筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
ウェブサイトはこちら
カテゴリ
最新の記事
生存確認
at 2013-08-10 21:15
橋本毅彦『近代発明家列伝』
at 2013-06-15 21:32
オディロン・ルドン 夢の起源
at 2013-06-08 21:46
量子の地平線
at 2013-06-02 15:58
仕事
at 2013-05-07 21:26
その他のジャンル