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岡田暁生『西洋音楽史』
岡田暁生『西洋音楽史:クラシックの黄昏』中公新書、2005年。



いわゆるクラシック、というものを、これまでほとんど聴いたことがない。
そりゃあもちろん、小学校や中学校の音楽の時間に習ったりとか、
コンサートに連れていかれたりとかしたことはある。
言いたいのはそういうことではなく、
主体的に「聴く」という行為に出たことがない、ということだ。

高校の頃までの、クラシックなるものに対する僕の印象は、
なんだかよくわからないし、どうも肌に合わない、というものだった。
大学生になって以降も、特段音楽を聴くという習慣はなかったから
――むしろポップスを歌うほうが僕には楽しかったし、実際、向いていたと思う――、
実に今に至るまで、そのイメージは基本的に変わっていなかった。



『西洋音楽史』という本のことは前から知っていて、
高い評価を受けているということも話に聞いていた。
だからもっと早くに読んでいても不思議はなかったのだが、
自分に興味のない分野の本はやはりどうしても後回しになるものだ。

ではどうして読む気になったのか、と言えば理由はいろいろあるわけだが、
そういう個人的な事情は措いて結論を述べよう。
これは面白かった。そして、いろいろと曲を聴いてみようという気になった。

何がそんなにも作用したのか。
それはやはり、知っている作曲家の名前の数々が
――知っているというのはこの場合、ただ名前を聞いたことがある、という意味だが――
歴史化されたから、にほかならないと思う。

たとえばベートーベンとかモーツァルトとかバッハとか、
ショパンとかマーラーとかチャイコフスキーとか、
誰もが一度は耳にしたことのあるであろう名前は、
さして興味のない、あるいは詳しくない僕のような人間には、
単なる箇条書きのリストとしてしか頭の中に存在しない。
誰が誰よりも前の人で、といった時間的順序関係がそこには欠けている。
さらに、こういうふうに人名が一緒くたになっていると、
「クラシック」が指す対象も、何かひとまとまりのものであるように思い込んでしまう。
「クラシック」という言葉の前で立ち止まってしまい、その内側が見えなくなるのだ。

僕がこの本を読んで気付いたのは、自分が「クラシック」という言葉で想像していたものが
実際にはそのほんのわずかの一部にすぎなかった、ということだった。
もっとはっきり言ってしまうと、僕の頭の中で「クラシック」とはほとんど交響曲、
それもベートーヴェン的なものとして記憶されていたように思う。
まったくもって皮肉なことだが、ベートーヴェンはこの本の中で立ち入って述べられている
作曲家のうちで、あまり聴いてみたいと思えなかった上位三番目までには確実に入っている。
参考までに、著者がベートーヴェンについて書いている箇所の最後の段落を引用しよう。

とはいえ、やはりベートーヴェンこそが古典派音楽の最良の美質の継承者であり、
その完成者であることは、改めていうまでもない事実だ。
主観と客観、意志と形式、横溢する生と自己規律の間の均衡
――この古典派音楽の理念の完成を成し遂げたのが、ベートーヴェンなのである。
(中略)
ベートーヴェンは、自由に想像力の翼をはばたかせながら、十二分に言い切り、
言い尽くし、そして完成する。《エロイカ》の第一楽章では、何度となく別の調性や
主題の侵入によって「異議申し立て」がなされ、エネルギーに満ちた主題は
思いもしない転調によって逸脱を重ね、果てしなく膨張しながらも、
決して瓦解することなく、限りない多様性を孕みながら、
最後は確固たる意志でもって統一されるのだ。(128-129頁)

この一節はこの本の中でも優れて読み応えのある箇所だと僕は思うのだが、
しかしここで解説されている価値観はどうしても好きになれない。
そしてその事情はたぶん、僕がどうしてもカントやヘーゲルに共感できる気がしないというのと
つながっているように思う。

実際、この本を読んでいて非常に面白かったのは、中世から現代にまで至る
ヨーロッパ音楽の変遷が醸し出している時代の空気の移り変わりが、
僕が科学史を通じて感じ取っているものと相当一致しているという点だった。
別の言い方をすると、この時代だからこういう音楽が出てくる、ということが
とてもよく腑に落ちたのだ。
科学と音楽、というとかけ離れたものであるかのように聞こえるが、
歴史はむしろ、この二つがよく似た軌跡を描いていることを示しているように僕は思う
(そしてたぶん、絵画や文学の場合にも似たようなことが言えるのだろう)。

さらに言うと、この本の内容自体が、かなり科学史に近い性格を持っている。
音楽の特徴そのものの変遷について述べられる一方で、
各時代にあって音楽が社会のなかでどのようなありようをしていたのかについても詳しい。
さらに、個々の作曲家をめぐる思想史という側面も多分にある。
科学史の場合もこれと同じことで、科学の知見や理論の発展、科学の社会的なあり方、
さらに科学者の思想といった要素をバランスよく混ぜる必要があるだろう。
以前、とある科学史の先生が講演の中でこの本に言及されていたことがあったのだが、
その理由が今はたいへんよくわかる。
要するに、これに相当するような科学史の一般向け通史が必要なのだ。

この本の魅力は何と言っても、著者が主観を前面に出して「大きな物語」を語っている点にある。
上で引用したベートーヴェンについての記述から推し測っていただきたいと思うが、
全編がこういう感じで、とにかく読んでいて面白い。
クラシックに詳しい人ならなおのこと興味深く読めるのだろうが、
素人の僕が読んで面白いと思うのだからこれは本当によい本だと思う。



「あとがき」で著者は、音楽史研究における「専門分野の加速度的な細分化に対する
強い苛立ち」を表明している。曰く、音楽史の通史は近年ではほとんど例外なく
複数の著者の分担執筆で、しかもやたらと分厚くなっている、という。そうしてこう問いかける。

もちろんこれらは、専門家に対して多くの正しい最新の専門知識を
万遍なく与えてくれはするだろう。だが古典派音楽だけで300ページにも
及ぶような本を読んで、はたして門外漢が「音楽史」を理解できるのだろうか。
その流れの全貌を把握できるだろうか。そして何より、門外漢に
理解できないような「歴史」に、いったい何ほどの意味があるのだろうか。

まったく同じことが、科学史についても言えるだろう。
だいたい、歴史の研究者であることと歴史家であることとは違う。
しかし他人を当てにしていても埒が明かないので、これはひとまず僕自身の宿題にしたい。
(提出期限は10年後くらいだろうか。)



ともかく、何でもよいからクラシックの曲を聴いてみることから始めようと思う。
どれを選んでみてもまあ、きっと大丈夫だろう。
流れさえ見えていれば、大海の中に放り出されても漂流する心配はないに違いない。
by ariga_phs | 2011-07-23 23:22 | 斜めから読む
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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