『日経サイエンス』2013年7月の特集「量子の地平線」を読んだ。
とても懐かしい気分になった。
大学で量子力学について初めて学んだのは2回生の時だったと思う。
講義が何回か進んだところで、よく分からなくなった。
授業ではひたすら、教官が板書していくのを移していくだけで、
それについて何かを考えようとするとまったく追いつけない。
これは別に量子力学に限ったことではなく、ほかの科目でも多くの場合、
状況は似たようなものだった。
仕方ないので、中盤あたりからは出席するのをやめて、自分で勉強した。
結果的に、自分が量子力学について何がしか分かったような気になったのは、
練習問題をいろいろやってみて、ある程度解けるようになった時だった。
おかげで期末試験はそれなりに出来た。
授業ではそうした練習問題をほとんどやっていなかったから、
ドロップアウトしたのが結局は功を奏したことになると思う。
しかしそれでも、量子力学を理解できたようには思えなかった。
今回の特集でも言われているが、量子力学は物理学の中でも特に理解しがたい。
その理由は、この理論が言葉で表現できないことにあると思う。
よく一般向けの説明で言われる、「粒子と波の二重性」や「不確定性原理」は、
量子力学の一つの側面ではあるけれども、
理論全体の基本となる物理法則(ないし原理)ではない。
この点は、ほかの物理学の基本法則とは大きく異なる。
力学にはニュートンの3法則が、熱力学には第1、第2法則というのがある。
電磁気学のマクスウェル方程式も、日常の言葉で一応は説明ができる(と思う)。
(特殊)相対性理論でさえ、その出発点は光速度一定の原理と相対性原理という、
言葉で述べることのできる主張である。
「光の速度はそれを眺める人間がどのように動いていても関係なく一定である」
というのは、確かに信じがたいが、この文章そのものの意味は分かる。
ところが、たとえば量子力学の基本であるシュレディンガー方程式は、
これを言葉で述べることが極めて難しい。
その数式がどういう意味なのかを日常言語に翻訳できない。
にもかかわらず、これを計算して一定の解釈を当てはめると、
なぜだかそれなりに正しい結果に行き着く。
正しい結果になるのだから最初の式も正しいのだろうとは思うわけだが、
しかしその数式が何を意味しているのかは判然としない。
ここに量子力学の気持ち悪さがある。
ずいぶん前置きが長くなったけれども、今回読んだ特集記事では、
この気持ち悪さをどう解消するかということについて、
最近の三つの方向性が紹介されていた。
この手の議論は昔からあり、隠れた変数理論や多世界解釈といったものは、
僕も大学院生時代から知っていた(そういえば、院生時代には
量子力学の哲学についての入門的な勉強会にも参加したのだった)。
けれども今回紹介されている三つの方向性はどれも、それらとは異なる。
そしてそのいずれもが、違う意味で有望に感じる。
谷村氏は、量子力学の本質は非可換性という数学的性質にあると言う。
木村氏はこれに対し、情報についての直観的に理解できる主張から
量子力学の理論は導き出せるという見方を示す。
一方ベイヤー氏は、波動関数を主観確率として解釈することで
量子力学の首尾一貫した理解が可能になると言っている。
僕がこの三つを有望に感じるのは、そのいずれもが、
物理的世界の実在性には基本的に手をつけないような形で議論していて、
そのため多くの科学者にとって受け入れやすいものになっていると思うからだ。
現代の物理学について本格的に学ぼうとすれば、量子力学は避けて通れない。
けれどもその理論は、非常に高度な数式を使って「しか」表現できない。
だから当然、中学校や高校の物理ではこれを教えることができない。
いわゆる理科の中でも、生物などは最近の成果がどんどん教科書に入っているのに、
物理でそれが進まない最大の理由はそこにある
(DNAは1950年代の発見だが、量子力学は1920年代には出来上がっていた)。
しかしもし、今回の記事で紹介されているような議論がさらなる進展を見せ、
それが広く物理学者のあいだで認められるようになってくるとしたら、
状況はやがて変わってくるのかもしれない。
量子力学は本当のところ何を意味しているのか、という問いかけは、
科学的というよりはむしろ哲学的な問いである。
何を意味しているのか分からなくても計算はできるのだから、
これを研究して実用的にありがたいことが出てくるとはあまり思えない。
けれども、それが分かるということは、やはりとても嬉しいことだ。
科学哲学の世界からは遠ざかってだいぶ経つけれども、
まあなんというか、面白いものは面白いなということを、改めて認識させられた。