「越境する歴史学」という研究会に参加してきた。
OBのS先輩が今度、この研究会で発表することになっており、
それに先立つ今回の例会で扱われる話題が科学史に近いということで、
お誘いをいただいた。
二つの発表があり、一つはロシアにおける近代化あるいは「西欧化」をめぐる問題で、
この中で18世紀のサンクトペテルブルク・アカデミーの話題などが出てくる。
ピョートル大帝によるこのアカデミーは、僕の研究の関係では、
オイラーがそのキャリアの最初と最後を過ごした舞台になっているのだが、
日本国内はもちろん、海外を含めても、
このアカデミーとその設立背景に関する研究は少ない。
知らなかった文献の情報なども得ることができ、僕としては有益だった。
(なお、発表そのものはもっと広い射程を持っており、
17世紀から18世紀にかけてのロシアの「西欧化」の位置づけを再検討する内容。)
もう一つの発表は、ナチスの「収穫感謝祭」というイベントを取り上げ、
その本質に迫ろうとするもの。
意外なことにこのイベントについてはドイツでもほとんど先行研究がないらしく、
ドイツの地方史料館などを訪ねて史料を集めたという点にまず凄みを感じた。
ここでは詳しく書かないが、発表内容自体も非常に面白かった。
僕は、純粋な歴史学の研究会に参加するのは今回が初めてだったのだが、
全体として痛感したのは、「歴史学」という研究分野の存在感だった。
つまり、研究の方法論や前提となる共通知識・考え方などがちゃんとあって、
個々人の専門分野は違っても、同じ土俵で議論されているという印象を受けた。
研究者の数も、それなりにたくさんいるに違いない。
このことを特に感じたのは、何かの折に出た、こういう発言である。
詳しくは忘れたが、確か、これこれについては既に海外で大部の研究書が出ているから、
後はそれを日本語に訳したらいいんじゃないかと思う、というような発言だったと思う。
私見だが、これは科学史ではほとんど考えられない。
なぜなら、そんな本を訳しても誰も買わないから。
つまり、海外の良質の専門書を訳すことに意味があるのは、
その専門研究を評価して利用できる集団が国内に存在する場合だけだと思うのだが、
科学史の場合その前提が成り立っていないと思うのだ。
僕の研究分野の関係で「これを訳したらどうか」と思う本は何冊かあるけれども、
それを読むような人がある程度の数で存在するとは思えないのである。
(だから、訳すなら、とりあえずは概説的なものにすべきだと思っている。)
ともかく、科学史の研究者の仲間うちだけでは見えてこないものを、
いろいろと見聞きすることができた。
この研究会は「越境する歴史学」と銘打たれているわけだが、
こうした異分野の(?)研究会などにも積極的に「越境」していきたい。
と言うかむしろ、「越境」こそ科学史の本質に違いない。