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経緯
帰国時の詳細。



もともとは、金曜17:30発の便で北京まで飛び、
そこから関空行きに乗り継ぎをするという予定だった。
が、搭乗ゲートのところで待っていても、なかなか搭乗が始まらない。
アナウンスによれば、技術的な問題で出発が遅れているとのこと。
もっとも、北京では乗り継ぎ待ちが6時間くらいあることになっていたので、
3時間くらいは遅れても大丈夫(むしろ好都合)だなと思いつつ、本を読んでいた。

そのまま1時間経ち、2時間経ち、3時間経ち、外はすっかり暗くなる。
そうして21時頃、ついに、トラブルのため今夜は出発できないとのアナウンスが・・・。
さっそく、振り替え便と今夜の宿泊の手続きがその場で始まったのだが、
なにぶんここはフランスで、航空会社は中国である。
乗客の8割くらいがフランス人と中国人、スタッフも同様。
そうなるとほとんど必然的に、フランス語も中国語もできない少数派は後回しになってしまう。
しかも僕らは単に北京行きを振り替えてもらっても困るわけで、
オペーレーションが相当に面倒なのは想像がつく。
いずれにせよ、あまりちゃんと覚えていないが、僕らの方の交渉がまともに始まるまで、
さらに2時間くらいかかったんではないだろうか。

僕と同じように、北京経由で日本に行く予定だった人たちが全部で17人
(成田17人、関西3人、中部2人)いて、自然とこのメンバーでまとまりができた。
このうち日本人は14人で、年齢層的には20代がほとんど。
残り三人は、英語のできるフランス人、英語と日本語のできるギリシャ人、
英語と日本語と中国語のできるマレーシア人という面々で、
この三人の方々には非常にお世話になった(特にフランス語と中国語を喋れる人がいたのは大きい)。

代わりの便はなかなか見つからず、一時は月曜まで空席がないとまで言われた。
が、航空会社スタッフの方々にさらに探してもらった結果、
翌日に中国の广州(南部、香港から少し内陸に入ったところ)まで飛んで、
そこから日本の各方面へ行く便に乗り継げるらしいということがわかった。
この内容で振り替え依頼書のようなものを発行してもらい、手続きが終わったのは確か1時過ぎ。
そのあと空港を出、手配してもらった近くのホテルにチェックインしたのが2時頃だった。
どうでもよい話だが、今回のアクシデントの副産物として、僕のパスポートには
20日出国、21日入国、21日出国という3つのフランスのスタンプが押されている。
同じ日に入出国というのはありえる話だが(後述)、
二日続けて同じ国から出国しているというのはたぶん相当珍しい。

翌日の便は11:00頃離陸予定で、3時間前には受付に来いと言われたため、
朝7時半にはホテルを出る(睡眠時間は3時間くらい)。
空港に着くと、チェックインカウンターでひと騒動あって、
本当にこの搭乗券でいいのかとか何とかで、確認のためまた1時間以上待たされる。
ようやくOK(らしい)になり、搭乗口へ向かう。
そこで少しだけ時間があったので、急いでこのブログに"annoucement"を書く。
が、ここでもまた、搭乗が遅れる。・・・なんだか嫌な予感。
幸い、原因はよくわからなかったが、1時間遅れくらいで飛行機は出発した。

翌朝(現地時間)、广州に到着。
ここでも何かしらトラブルがあるに違いないというのはすでに想定の範囲内。
まず、単なる乗り継ぎのはずなのに、一度入国をしないといけないらしい。
よくわからないが仕方ないので入国審査を受ける。
まったく不本意ながら、初めて中国に行ってきたことになってしまった(滞在時間2時間弱)。
次に、パリで預けた荷物がなぜか出てくる。
荷物は自動的に日本まで送られるという話だったのだが、意味不明。
もっとも、その程度ではもう驚かないけれども。
最後に、振り替えの話自体、やはり現地にうまく連絡されていなかったらしい。
航空会社の中国人スタッフが、あーだこーだと互いに文句を言いつつ手続きをしてくれ、
搭乗できることになった。どこまでも心臓に悪い。
ともかく、ここで三方面に別れてそれぞれが帰途に着く。
日本行きのメンバーの間には奇妙な連帯感が生まれていたので、少々名残惜しいものがあった。

15時頃、ようやく関空に到着。
これで後は、广州で再度預けた荷物が出てきてくれればよいわけだが、
しばらく待っているとちゃんと出てきた。これで本当にやれやれとなった。

結果的には、ほぼ1日帰国が遅れただけで、
追加費用も発生していなければ荷物も無くなったりしていない。
ただひたすら、体力と気力を消費したというだけの話だ。
いい経験だったと言えばいい経験だったが、できればもう体験したくはない。
(次にヨーロッパに行く時は直行便を使いたい。)

あと、今回ほど、英語が喋れてよかったと思ったことはなかった。
各地の交渉では三人の外国人の方が中心になっていたとは言え、
僕自身もある程度は、事情を説明したり希望を伝えたりお礼を言ったりした。
三年前にヨーロッパに行ったときと比べて格段に英語が喋れるようになったのが、
こういう形で役に立つとは想像だにしていなかった。
言葉は身を助ける、ということをひしひしと感じた一日だった。



帰国してからちょうど三日が経った。
この間すでに、飲み会があったり勉強会があったりと慌しかった。
今日と明日はようやく休養の日。
疲れがどっと出てきた感じなので、ゆっくり休もうと思う。
その後はまた、いろいろと忙しそうな予定。
パリに行ってきたというのが、早くも遠い昔になりつつある。
by ariga_phs | 2009-03-25 15:41 | 歳歳年年
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筆者プロフィール
有賀暢迪(1982年生)
科学史家。筑波在住。
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