今年のノーベル化学賞の内容を聞いたとき、生理学・医学賞の間違いではないかと思った。
授賞の対象となったのは、「リボソームの構造と機能の研究」。
リボソームは細胞の中にあり、遺伝情報をもつRNAの指示にしたがってタンパク質を合成する。
たしかに化学的なプロセスには違いないのだが、なにか引っかかるものがある。
これはむしろ生理学・医学賞の対象ではないのか?
そもそも「化学」とは、どこからどこまでを指すのだろうか?
考えてみれば、化学賞はある意味、ノーベルという人物にもっともゆかりのある賞と言える。
そもそもノーベルはダイナマイトの発明でひと財産を築いた人物なのだ。
言葉の広い意味でとらえるなら、生前のノーベルは「化学者」だったことになるだろう。
ところでノーベルが活躍した時代、つまり大雑把に言って19世紀後半の化学と言えば、
有機化学の発展とそれに伴う化学工業の発達、それと理論的な物理化学(化学熱力学)の
登場が重要な出来事として思い浮かぶ。ノーベルが遺言のなかで化学賞のことを書いたとき、
念頭においていた化学とはせいぜいそういうものだったはずだ。
ところが20世紀のあいだに、化学という分野そのものが大きく変わってしまった。
いろいろと言いだせばきりがないだろうが、私見では、放射性元素の発見に始まって
核分裂・核融合の制御へといたる原子そのものについての知見・技術の集積
(それが一方では信じ難い兵器を生んだことも含め)と、量子力学による化学結合理論の誕生、
それに生化学の驚異的な進展という三つを最低挙げておくべきだろうと思う。
とりわけ生化学は、DNAの二重らせん構造の解明や遺伝子工学の確立に象徴されるように、
20世紀後半に一躍その存在感を高めてきた。
21世紀に入り、時代はまさに生命科学のものになりつつある感がある。
現に、新しい世紀に授与されたノーベル化学賞のうち半分が生化学関係だ。
こうなってくるともう、化学賞と生理学・医学賞の区分はとても曖昧と言わなければならないだろう。
とはいえ、実をいえばこれは今に始まったことではない。
化学賞は始まった当初、物理学賞との区分が曖昧だった。
100年の歴史を通じて、化学賞はアイデンティティの危機とつねに戦ってきたのだ。
ノーベルが今の状況を見たら、いったいどう思うだろう。
もしかすると、「リボソームの構造と機能の研究」を化学とは認めてくれないかもしれない。